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くさつ歴史ギャラリー

更新日:2021年11月1日

「広報くさつ」毎月1日号に連載している「くさつ歴史ギャラリー」から、歴史資料・民俗資料を扱った回についてご紹介しています。
(令和2年度以降のもの。内容は広報紙掲載時から一部変更している場合がございます)

令和3年度

バックナンバー

鉄道省編・吉田初三郎画『鉄道旅行案内』(草津市蔵)

「大正の広重」が描く近江

『鉄道旅行案内』
「大津」より琵琶湖東側


明治時代を迎え、西洋のさまざまな文化や技術が日本にもたらされますが、その中でも画期的だったのが、鉄道です。明治5年(1872)に日本初の鉄道が開通して以降、鉄道網は日本全国に広がっていくとともに、鉄道を使った旅も一般的なものとなっていきます。
『鉄道旅行案内』は、大正10年(1921)に鉄道省より発行された旅行案内書です。全国の国有路線の沿線案内で、運賃などの各路線の紹介とともに、沿線の名所などが掲載されていますが、特に目を引くのが鮮やかに彩色された鳥瞰図(ちょうかんず)です。巻頭の例言でも、「汽車の窓から見ゆる景観図は、新たなる試みとして、本年始めて挿入したもの(原文ママ)」とあり、当時としても珍しいものであったことが分かります。
この鳥瞰図を描いたのは、大正から昭和にかけて活躍した画家、吉田初三郎(よしだはつさぶろう)(1884~1955)です。多くの鳥瞰図を描いた初三郎は「大正の広重」と呼ばれ、人気を博しました。初三郎は、鳥瞰図を描くにあたって、事前にその土地の歴史などを調べ、現地まで赴いて、大量のスケッチをしたと言われています。初三郎の美しい鳥瞰図の秘密は、その綿密な事前取材にあったのかもしれません。

「大津」のページには、2つの鳥瞰図が掲載されており、ひとつは琵琶湖の東側を描いたもの、もうひとつは琵琶湖の西側を描いたものです。草津が含まれる東側の鳥瞰図には、赤い実線で国有鉄道の路線が描かれ、点線で近江鉄道の路線が示されています。草津周辺の湖上にはいくつかの船が描かれており、常夜燈らしきものが確認できる少し飛び出した部分が、かつて江戸時代に「矢橋の渡し」として栄えた矢橋港です。

(草津宿街道交流館 学芸員 岡田 裕美)

PDFはこちら(PDF:1,107KB)

展示情報

鉄道省編・吉田初三郎画『鉄道旅行案内』は、令和3年草津宿街道交流館秋季テーマ展「描かれた旅慕情―絵図から見る旅と観光―」で展示いたします。
会期:令和3年10月30日(土曜)~12月12日(日曜)
詳細は以下のページをご覧ください。

秋季テーマ展「描かれた旅慕情―絵図から見る旅と観光―」

岸駒(がんく)龍虎双幅(りゅうこそうふく)」(草津宿本陣蔵)

断続的に伝わる絵画

草津宿本陣には、江戸時代に高貴な人のみが利用できる休泊施設であったという歴史故か、当時の著名な画家による絵画類が残されています。
岸駒筆の《龍虎双幅》もその一つです。
昭和3年(1928)1月6日の『大阪朝日新聞滋賀版』で、本陣第12代当主・田中森之助氏の紹介と共に、本図に触れられています。記事によると、双幅のうち龍図は焼失したと伝えられていたようで、当本陣の明治天皇行在所としての史蹟指定に関わる調査で発見された可能性が考えられます。
作者である岸駒(寛延2年〔1749〕または宝暦6年〔1756〕~天保9年〔1838〕)は、江戸時代中期~後期、京都画壇で隆盛を誇った岸派の祖である画家です。特に虎の描写は「虎図は岸駒」と言われるほどでした。当時は本物の虎が見られなかったため、岸駒は虎の皮や頭蓋骨を入手し観察することで写実性を追求したようです。天保4年(1833)には、岸駒の息子で岸派二代目の岸岱(がんたい)が当本陣に宿泊し、本図の箱書きをしています。
龍虎図の虎は迫力ある姿がよく見られますが、本図では前脚をそろえておとなしく座っており、しっぽはかわいらしい印象です。双幅を並べ見ると、龍図はぼかしを多用する一方で、虎図は比較的輪郭が明瞭でコントラストが強く、表現の対比も魅力です。

(史跡草津宿本陣 学芸員 松浪 千紘)

PDFはこちら(PDF:866KB)

明治七年 大福帳(草津宿本陣蔵)

最後の「大福帳」に記された人物とは?

明治七年大福帳

本陣は、江戸時代に参勤交代で街道を往来する大名をはじめ、公家、幕府役人、宮門跡などの人々が利用した休泊施設のことで、現存する田中七左衛門本陣には、元禄5年(1692)から明治7年(1874)までの休泊について綴られた「大福帳」が残されています。明治3年(1870)の宿駅制度の廃止により、本陣・脇本陣の名目は廃止されますが、その後もしばらくの間は利用があったため明治7年までの記録が残っています。今回はその中から、明治7年の「大福帳」に記された人物について紹介します。

この年の「大福帳」の記載は、6月24日の「静寛院宮(せいかんいんのみや)」の一件のみで、つまりこれが「大福帳」に残る七左衛門本陣の最後の利用記録となっています。静寛院宮とは、第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁いだ孝明天皇の妹君、和宮(かずのみや)の出家後の名前です。
文久元年(1861)10月20日、将軍家茂に降嫁するため京都を出発した和宮は、その二日後の22日、七左衛門本陣で昼食休憩を取りました。大規模な行列は当日だけでは収まらず、前後4日にわたって草津宿を通過し、その人数は本体だけで2300人余り、近隣から集められた人足は1万人にものぼりました。
そして、翌年2月11日、将軍家茂と和宮の婚儀が執り行われましたが、結婚生活は長くは続かず、慶応2年(1866)の第二次長州征伐の折、上洛中であった夫の家茂が病死。和宮は髪を落として「静寛院宮」と名乗り、明治2年(1869)に京都へと戻りました。

その後、静寛院宮は明治天皇より東京への移住を勧められ、明治7年に東京へ向かう際、再び田中七左衛門本陣を利用し、休憩を取りました。
明治7年の大福帳をみると、静寛院宮の行列の人数は御輿の担ぎ手10人を含めて16人。文久元年の大行列と比べると、あまりにも寂しい行列でした。
降嫁から13年、幕末の動乱を経て新しい時代へと向かっていく街並みを、静寛院宮はどのような面持ちで見ていたのでしょうか。

(史跡草津宿本陣 学芸員 松本 真実)

(PDFはこちら)(PDF:851KB)

本多康禎(ほんだやすさだ) 御直筆写(草津市蔵)

「読み聞かせ」られたお殿様の言葉

本多康禎御直筆写 本多康禎御直筆写 外題

膳所藩第11代藩主・本多康禎(ほんだやすさだ)が文化11年(1814)8月に発令し、同13年6月に(こおり)奉行(藩において、村々の行政にあたった役職)から再び布告された法令。巻子(かんす)(巻物)の形になっており、裏打や緒(ひも)もすべて紙製で簡素な作りですが、広げると長さは236センチにもなります。

外題(巻いたとき、外から見える部分に書き入れた題名)には「月々読聞セ 一巻 西横町」とあり、膳所藩領だった当時の草津村のうち、西横町(にしよこまち)が所有していたものと分かります。西横町は同時代の記録によると、旅籠だけでも30軒ほどが並ぶ草津宿のはずれの町でした。同内容の写は膳所藩領の各村に配り置かれたものと思われ、他にも数点が現存しています。

この「直筆の写」は、藩主みずからの言葉として、儒教的な仁愛の考えに基づき、藩主と領民の関係を親子の関係に例えて説いたものです。「政道は慈悲が本なり」、すなわち藩政の根本にはあくまで慈悲がある、という書き出しに始まり、「慈悲のみ行いたきもの」だとした上で、例えばどれほど可愛がっている子どもであっても時には厳しく正さねばならないように、重い罪を犯した場合には「仕置(刑罰)」をもって対応しなくては国が治まらないのである、と語っています。
またこの中では、家族や親類の手に負えないほど素行の悪い人物がいる場合には、百姓なら庄屋や年寄、代官、郡奉行の順に、町人なら町役、同心、町奉行の順に訴え出るよう定めており、村と町の支配体制の違いも現れています。

奥書には、同じく文化13年に発布され、質素倹約を申し付けた「主法(しゅほう)書」と合わせて、「月に一度、人々が集まる場で読み聞かせるように」という庄屋に向けた申し渡しが記されています。村々に対する膳所藩の姿勢とともに、人々の様子がうかがえる、興味深い資料といえます。

(草津宿街道交流館 学芸員 冨田 由布子)

PDFはこちら(PDF:949KB)

姥餅火入(うばがもちひいれ)(草津市蔵・中神コレクション)

姥ヶ餅から生まれた焼物

姥餅火入

現在でも草津の名物として知られる「うばがもち」ですが、その歴史は古く、慶長19年(1614)以前には、矢倉(やぐら)に餅屋があったとされています。その頃から今日まで、姥ヶ餅は草津宿の名物として、多くの人気を集めています。

その姥ヶ餅を乗せる餅皿から始まった焼物が姥ヶ餅焼です。当初は木製であったものが素焼きの皿となり、現存する最も古い姥ヶ餅焼は明和3年(1766)の銘が入った素焼きの小皿です。
寛政11年(1799)に著された「養老亭記(ようろうていき)」によると、8代目当主であった瀬川都義(せがわくによし)は茶道を志しており、自宅でもあった姥ヶ餅屋に茶室や庭園を造るほどでした。当時の膳所藩主などと茶道具を見せ合い、親交を深めていた都義は餅皿だけに留まらず、茶碗や水指(みずさし)香合(こうごう)などの茶器にも「姥餅」の窯印(かまじるし)()させ、姥ヶ餅焼として焼き始めるようになりました。茶道のみならず、さまざまな芸術を好んだ都義の下には、文化サロンのようなコミュニティが出来ていたのかもしれません。

さらに、10代目当主であった金沢好澄(かなざわこうちょう)も都義の志を継いで、姥ヶ餅焼の焼造を熱心に行ないました。都義も好澄も姥ヶ餅屋の近くに窯を築いていましたが、現在残っている姥ヶ餅焼の多くは、京都や瀬田、信楽などに注文して作らせ、「姥餅」の刻印を入れたものです。

姥餅火入は、姥ヶ餅焼の火入です。「火入」とは、煙草に火をつけるための火種を入れておく器で、煙草盆の中に入れるものです。火種として、中に炭と適当な大きさに切った木炭を入れて使用します。この火入がいつ頃に焼かれたものなのかは不明ですが、「姥餅」の印とともに、「千代の春 契るや(じょう)(うば)が餅」の句と交差した箒と熊手が描かれています。箒と熊手は、能で知られる「高砂(たかさご)」の「尉と姥」にちなんだ、おめでたい図柄です。この句とモチーフは他の複数の姥ヶ餅焼にも見られます。

さまざまな書物や浮世絵に描かれ、草津の名物として知られた姥ヶ餅ですが、単なる名物に留まらず、姥ヶ餅焼という新しい文化を草津に生み出すきっかけともなりました。

(草津宿街道交流館 学芸員 岡田 裕美)

PDFはこちら(PDF:776KB)

バックナンバー

昨年度以前の記事です。
各記事の内容は、PDFファイルをご覧ください。

令和2年度

「六角承禎条目写」-怒りの手紙が明かしたあの人の意外なプロフィール-(草津市蔵・春日家文書) PDF(PDF:816KB)
徳富蘇峰「聖蹟千秋存」-書に込められた思いとは-(草津宿本陣蔵)  PDF(PDF:887KB)
歌川芳幾画「東海道五十三次滑稽双六」-おうちでも旅気分を味わいたい-(草津市蔵) PDF(PDF:1,120KB)
歌川芳虎画「大津坂本城落城之図」-明智秀満美談-(草津市蔵・中神コレクション)  PDF(PDF:1,096KB)
「田中七左衛門宛 狩野勇書状」-亡き主君を思う家臣と蓮の花-(草津宿本陣蔵)  PDF(PDF:762KB)
巌谷小波「俳画散筆」-描かれた春と子供の存在-(草津市蔵・中神コレクション)  PDF(PDF:733KB)

旧・くさつ歴史ギャラリー

令和元年度以前、このページにてご紹介していた記事です。

Vol.16 御家人浮世絵師と明治時代 PDF(PDF:416KB)
Vol.17 子どもを守った猩々―疱瘡除けの人形― PDF(PDF:291KB)
Vol.15 江戸時代のお金―寛永通宝― PDF(PDF:325KB)
Vol.14 浮世絵で化粧品宣伝!? PDF(PDF:190KB)
Vol.13 「東海道線旅行図会」(明治40年) PDF(PDF:326KB)
Vol.12 「福島正則禁制」 PDF(PDF:296KB)
Vol.11 「東海道五十三次漫画絵巻」  PDF(PDF:212KB)
Vol.10 豪商と皇女の食事 PDF(PDF:280KB)
Vol.9 歌川広重画「参宮上京道中一覧双六」 PDF(PDF:499KB)
Vol.8 描かれた幕末の草津宿―「草津宿割絵図」― PDF(PDF:335KB)
Vol.7 「田中九蔵本陣絵図」―田中七左衛門本陣絵図と比較して― PDF(PDF:353KB)
Vol.6  明治期の古地図―烏丸半島辺りの原風景― PDF(PDF:321KB)
Vol.5  昭和初期の草津名所の絵はがき PDF(PDF:270KB)
Vol.4  旅の愉しみ―駅弁掛け紙 PDF(PDF:307KB)
Vol.3  明治天皇、狼川を渡る PDF(PDF:161KB)
Vol.2  旅の必需品―あかり― PDF(PDF:189KB)
Vol.1  十返舎一九「東海道中膝栗毛」「続膝栗毛」と草津宿 PDF(PDF:298KB)

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教育委員会事務局 草津宿街道交流館
〒525-0034 滋賀県草津市草津三丁目10番4号
電話番号:077-567-0030
ファクス:077-567-0031

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