このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
サイトメニューここまで

現在のページ

  1. トップページ
  2. 草津宿
  3. 草津宿学問所
  4. くさつ歴史ギャラリー

本文ここから

くさつ歴史ギャラリー

更新日:2023年3月16日

「広報くさつ」に連載している「くさつ歴史ギャラリー」から、歴史資料・民俗資料を扱った回についてご紹介しています。
(令和2年度以降のもの。内容は広報紙掲載時から一部変更している場合がございます)

令和4年度

バックナンバー

古写真から辿る草津の歴史

もうひとつの東海道と中山道の分岐点

草津宿は「東海道と中山道の分岐点」として知られ、その分岐を示すのが、草津川マンポ(トンネル)横に立つ追分道標です。実は、この追分道標以外に、もうひとつ、東海道と中山道の分岐点を示す道標があるのをご存知でしょうか?かつて「大路井(おちのい)」と呼ばれた大路の覚善寺の門前に立つ道標です。

左・中の古写真は、草津市史編纂の際に収集された写真で、それぞれ明治末期、昭和初期の道標を写したものです。明治19年(1886)、草津川マンポが建設されたことに合わせ、東海道と中山道の分岐点を移動させることになり、新しい東海道として「大路井新道」が造られました。その新たな分岐点に建てられたのが、大路井の道標です。道標の「右」の方向が小汐井神社の前を通って石部方面へ向かう東海道、「左」が中山道となっています。
明治末期の写真では、覚善寺の角に道標が立っていますが、昭和初期になると、覚善寺の敷地の一角が商店や住宅に変わり、人の姿やバスも確認できます。
大路井の道標が立てられた3年後の明治22年(1889)には、草津駅が開業し、街の中心は「宿」から「駅」へと変わってゆきます。大正時代には、草津駅前とかつての宿場町を繋ぐ経路でもあった大路井の市街地化が進み、大路井新道沿いにも、多くの商店や住宅ができたそうです。2枚の古写真を比較すると、そういった大路井の変化の様子をうかがうことができます。

現在、この東海道と中山道の分岐点の周囲は、高層マンションや多くの飲食店で賑わい、かつての面影は、道標と覚善寺のみとなってしまいました。しかし、残された古写真からは、昔の街並みや人々のくらしを、より現実のものとして知り、感じることができます。

(令和5年3月・草津宿街道交流館 岡田 裕美)

PDFはこちら(PDF:1,144KB)

関連展示のお知らせ

草津宿街道交流館では、令和5年3月18日~5月7日、草津市史編さんの際に収集した古写真や草津の老舗写真館「西岡写真工房」所蔵の古写真などから、懐かしい草津の風景をご紹介する春季テーマ展「草津今昔ものがたりー古写真でたどる記憶ー」を開催します。
詳しくは下記のページをご覧ください。

春季テーマ展「草津今昔ものがたり―古写真でたどる記憶―」

「和宮御方様 御下向御道中御次献立帳」(草津市蔵)

宮様のお食事はさぞかし豪華、と思いきや…?

和宮御方様御下向御道中御次献立帳

幕末、内憂外患の社会情勢にあって、幕府と朝廷の融和策として孝明天皇の妹君・和宮(かずのみや)親子(ちかこ)内親王)が十四代徳川家茂へと嫁ぐ一行が江戸へと下っていきました。一行は文久元年(1861)10月20日に京都を出立し、中山道を通って25日間の行程で江戸城へ到着。道中では、沿道警護29藩、随行警護12藩、その行列の人数は3,000人近くであったといわれ、このようすを当時のうばがもちや当主は「誠ニ前代未曾の御通輿」と「日用雑記」に記しています。

このときの道中の食事については、大津宿から板橋宿までの各宿に対して「御料理物宿々有無書上達書」の提出が命じられ、各宿では「海魚(ならびに)塩肴」「川魚」「鳥類塩鳥」「干肴」「乾物類」「豆腐・蒟蒻・小麦・蕎麦粉之類」「青物類」を書き上げて報告しています。草津宿でも例にもれず書き上げて差し出していますが、実際の献立はどのようなものであったのでしょうか。
それをうかがう資料が「和宮御方様御下向御道中御次献立帳」で、和宮通行の全行程における食事の献立が記されています。この献立帳は膳所藩の賄いに携わっていたと推察される「御賄三番組 西村藤八」が書き綴ったものです。

草津宿に立ち寄ったのは10月22日で、田中七左衛門本陣において昼食をとりました。一汁四菜で、膾は蓮根重切、椀物は紅葉麩や山吹湯葉、平は椎茸や銀杏、皿盛は三井寺豆腐で、御飯、汁物、香物がついています。
先に提出を求められた書上げとは献立が大きく異なっていますが、提出した時期と通行時との季節の違いによるものでしょうか。また、献立帳を順に繰っていくと、「汁」が白味噌や赤味噌と異なり、地域による食文化の違いなどもうかがえます。

中山道最大の通行である和宮の行列に際して仕立てられた食事というと、豪華絢爛、華やかな食膳を想像しますが、草津宿の献立をみる限り、決してそうではなかったようです。都を離れたことのない数え年16歳の少女が、未だ見知らぬ土地へと嫁いでいく不安や淋しさを心中に、口にする食事の味はいかばかりであったのでしょうか。

(令和5年1月 草津宿街道交流館館長・八杉 淳)

PDFはこちら(PDF:1,078KB)

歌川芳幾画「東海道中栗毛弥次馬 草津・大津」(草津市蔵・中神コレクション)

見ても読んでも楽しい!

東海道中栗毛弥次馬
(部分)

江戸時代の草津を描いた浮世絵には、矢倉立場(たてば)にあった草津名物、姥ヶ餅(うばがもち)を売り出していた「うばがもちや」を描いたものが多くあります。今回は、それらの中でも弥次(弥二)さん北(喜多)さんが登場する「東海道中栗毛弥次馬」について紹介します。

「東海道中栗毛弥次馬」は、江戸時代後期にベストセラーとなった十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」を、戯作家(げさくか)仮名書魯文(かながきろぶん)が東海道五十三次の宿場に伝わる風俗や伝説をもとにエピソードを加えて脚色したもので、浮世絵師・歌川芳幾(うたがわよしいく)が絵を添えています。万延元年(1860)に出版されたこの作品は、絵が二丁ずつ1枚に摺られ30枚あり、草津は大津と併せて1組になっています。

このシリーズでは、弥次さん北さんによる滑稽な会話と狂歌が主に平仮名で記され、仕草や表情の豊かな登場人物たちが面白おかしく描かれています。
草津の内容は、うばがもちやの店先で弥次さんが姥ヶ餅を慌てて食べたために喉に詰まらせ、せっかくの餅を吐き出しています。5つ食べたという弥次さんでしたが、口から吐き出したのは全部で7つ。背中を叩く北さんと店のお婆さんは、サバを読んで横着なことをする弥次さんに呆れかえっています。
左下には「すきはらに あはててのどへからみもち はらのたしにはならぬくるしさ(すき腹に あわてて喉へからみ餅 腹の足しにはならぬ苦しさ)」とこの場面にあった絶妙な狂歌とともに、この様を笑う犬が可愛らしく描かれ、現在の私たちも楽しめる作品となっています。

(令和4年11月 草津宿本陣学芸員・松本 真実)

PDFはこちら(PDF:1,284KB)

歌川国芳「近江国 萩の玉川〈諸国六玉川(むたまがわ)〉」

虫の()が聞こえてきそう

歌川国芳「諸国六玉川 近江国萩の玉川」

宵闇の中、川べりに萩が咲いています。右端の女性は行灯を手にして、華やかな振袖を揺らしています。今まさにこの画面の中に登場したところでしょうか。夢中で萩を愛でていた左の2人のもとに、明かりを持ってきたのかもしれません。萩は秋の七草のひとつ。初秋の夜の、涼しげな情景です。

題の「萩の玉川」は、近江国の歌枕「野路の玉川」を指します。歌枕とは古来、和歌に多く詠まれた名所のことです。中でも全国6か所の「玉川」はまとめて「六玉川」と呼ばれ、数々の文芸作品や芸能、絵画作品の題材になってきました。嘉永年間(1848~1854)のこの作品も6点が組になった「諸国六玉川」のうちの1点です。
野路の玉川を詠んだ和歌の代表的なものに、平安時代後期の歌人・源俊頼の古歌「明日も来ん 野路の玉川萩こえて 色なる波に月宿りけり(明日も来よう、野路の玉川には萩の花が映り、さらに月までも映りこんでいる)」があります。このように、野路の玉川はしばしば夜の情景として描かれました。そのイメージの通り、ここでも上部の黒のぼかしで夜の闇が表され、萩はシルエットと小さな白い花で表現されています。定番のモチーフを描きつつ、彩り豊かな衣装をまとう女性たちを主役として浮き上がらせた、美しい作品です。

絵師の歌川国芳(1797~1861)は幕末期を代表する浮世絵師で、武者絵や風刺画をはじめさまざまな作品を残しており、近年は猫を好んで描いた絵師としても人気があります。この「諸国六玉川」全6点はいずれも大判(縦約36センチ、横約26センチ)3枚続きの迫力ある画面に女性たちを配し、それぞれ1枚ずつの作品としても成立するよう計算された巧みな構図になっています。

(令和4年10月 草津宿街道交流館学芸員・冨田由布子)

PDFはこちら(PDF:1,218KB)

茶弁当(草津宿本陣蔵)

ハレの日のごちそう

茶弁当 写真

 草津宿本陣には、当主・田中七左衛門家が使用したとされる江戸時代の「茶弁当」が伝わっています。茶道具などを持ち運ぶことができるもので、遊山の時などに使用したと考えられます。野点(のだて)を楽しむことができるため、野弁当とも呼ばれる道具です。
 屋根型の蓋を左右に開くと、上段には角形の注器と、直方体のような形の燗銅壺(かんどうこ)が納められています。燗銅壺では、片側に炭を焚き、片側でお湯を沸かすことができました。使用後に収納するとこの熱が上がるため、外箱の蓋は銅製となっています。下段には、黒漆塗の箱物が収納されます。印籠蓋の重箱、蓋のない箱、二方桟の三段重箱の3つです。三段重箱のみ、内側が朱漆塗となっています。すべてを収納し、前後面にそれぞれある半弧状の金具を上に向けると、外箱の上部中央の四角いくぼみとあわせ担ぎ棒で貫くことができます。この棒を、2人で手に提げて運んだようです。
 茶弁当を持っての外出は、本陣職で忙しい田中家の人々にとってはちょっとした旅だったかもしれません。

(令和4年9月 草津宿本陣学芸員・松浪千紘)

PDFはこちら(PDF:862KB)

木村唐船作・歌川芳重画「東海道五十三駅鉢山図会」(草津市蔵・うばがもちやコレクション)

鉢山で造られた東海道五十三次

「東海道五十三駅鉢山図会」(部分)

東海道沿いに設けられた53の宿場である「東海道五十三次」は、江戸時代後期になると物語や浮世絵など、様々なジャンルの作品に題材として取り上げられました。今回はその中でもユニークな作品「東海道五十三駅鉢山図会」をご紹介します。

資料名にある「鉢山」とは、土を盛った鉢に石や草木、小さな建物・人形などを配して景勝地を立体的に表現したものです。作品には、東海道五十三次の各宿場の名所を表現した鉢山の図が、1ページに1点ずつ多色摺りで掲載されています。鉢山は木村唐船という人物の作であり、それらを浮世絵師・歌川芳重が絵に描き起こし、嘉永元年(1848)に出版されました。草津の図は「瀬田より石山ヲ見」と題し、茶色で無地の鉢に、旅人が渡る瀬田の唐橋と、峻険でトゲトゲとした山の頂上付近に石山寺が見える風景が造られています。また、大津の図は「矢橋より舟付」と題し、矢橋から来た帆舟が大津の湊の突堤に着こうとする風景が、青地に蛸唐草文様の鉢に造られています。五十三次の全図を通して見ると、名所の風景には歌川広重が描いた浮世絵との類似点のあるものが多いことから、広重の作品を参考にして造られたと考えられています。また、鉢自体も様々な形態で柄や色も異なり、全図を通して同様の鉢は使用されていないのも特徴です。
描かれている鉢山全てを実際に唐船が制作したのかは判っていませんが、各図から名所の風景がどのようにして造られているのか想像しながら見られる、ユニークでとても楽しい作品です。

(令和4年7月・草津宿街道交流館学芸員 武富みゆき)

PDFはこちら(PDF:949KB)

広重が描いた草津の風景

歌川広重画「東海道五十三次之内 草津〈蔦吉版〉」・「五十三次 草津〈人物東海道〉」(草津市蔵・中神コレクション)


江戸時代後期の人気浮世絵師・歌川広重は、その生涯で東海道五十三次を題材としたシリーズ作品を数多く残しました。
草津も東海道52番目の宿場として各シリーズに取り上げられ、名所や名物など様々な風景が描かれています。
広重作の草津の浮世絵というと、矢倉にあった「うばがもちや」の店先と、前の通りを早駕籠や荷物を運ぶ人足たちが描かれた作品で、版元名から「保永堂版」と呼ばれるものが思い浮かぶ方が多いと思いますが、今回は「保永堂版」以外のシリーズで描かれた草津の風景について紹介します。

版元が蔦屋吉蔵であることから「蔦吉版」と呼ばれるシリーズでの草津は、東海道ではなく中山道側の草津川渡し場の風景が描かれています。草津川は平時、流れる水が少なかったため、作品にはあまり水のない川を、人々が着物の裾をたくし上げて、川を渡っている様子が描かれています。

また、草津川は天井川であったことから、堤防の切通し部分から見える家並みの屋根は、川床と同じ高さで描かれており、草津川の特徴がよく表れた作品となっています。


次に、風景とともに人物を大きく取り上げた「人物東海道」と呼ばれるシリーズでは、アオバナを摘む女性2人が主役に描かれています。
アオバナの花びらをしぼり、和紙に塗り込んで作られる青花紙は、当時から草津周辺の名産となっていました。背景には、港に停まる船の帆柱や琵琶湖に浮かぶ船、対岸の山々が描かれています。

(草津宿街道交流館 学芸員 武富 みゆき)

PDFはこちら(PDF:917KB)

バックナンバー

昨年度以前の記事です。
各記事の内容は、PDFファイルをご覧ください。

令和3年度

ゆるーい表情とポーズに注目。こんな鬼なら鬼も内?―横井金谷画「鬼玄象自画賛」(草津市蔵・中神コレクション)PDF(PDF:1,039KB)
「大正の広重」が描く近江―鉄道省編・吉田初三郎画『鉄道旅行案内』(草津市蔵)PDF(PDF:1,107KB)
断続的に伝わる絵画―岸駒「龍虎双幅」(草津宿本陣蔵)PDF(PDF:866KB)
最後の「大福帳」に記された人物とは?―「明治七年 大福帳」(草津宿本陣蔵)PDF(PDF:851KB)
「読み聞かせ」られたお殿様の言葉―「本多康禎 御直筆写」(草津市蔵)PDF(PDF:949KB)
姥ヶ餅から生まれた焼物―「姥餅火入」(草津市蔵・中神コレクション)PDF(PDF:776KB)

令和2年度

怒りの手紙が明かしたあの人の意外なプロフィール―「六角承禎条目写」(草津市蔵・春日家文書) PDF(PDF:816KB)
書に込められた思いとは―徳富蘇峰「聖蹟千秋存」(草津宿本陣蔵)  PDF(PDF:887KB)
おうちでも旅気分を味わいたい―歌川芳幾画「東海道五十三次滑稽双六」(草津市蔵) PDF(PDF:1,120KB)
明智秀満美談―歌川芳虎画「大津坂本城落城之図」(草津市蔵・中神コレクション)  PDF(PDF:1,096KB)
亡き主君を思う家臣と蓮の花―「田中七左衛門宛 狩野勇書状」(草津宿本陣蔵)  PDF(PDF:762KB)
描かれた春と子供の存在―巌谷小波「俳画散筆」(草津市蔵・中神コレクション)  PDF(PDF:733KB)

旧・くさつ歴史ギャラリー

令和元年度以前、このページにてご紹介していた記事です。

Vol.16 御家人浮世絵師と明治時代 PDF(PDF:416KB)
Vol.17 子どもを守った猩々―疱瘡除けの人形― PDF(PDF:291KB)
Vol.15 江戸時代のお金―寛永通宝― PDF(PDF:325KB)
Vol.14 浮世絵で化粧品宣伝!? PDF(PDF:190KB)
Vol.13 「東海道線旅行図会」(明治40年) PDF(PDF:326KB)
Vol.12 「福島正則禁制」 PDF(PDF:296KB)
Vol.11 「東海道五十三次漫画絵巻」  PDF(PDF:212KB)
Vol.10 豪商と皇女の食事 PDF(PDF:280KB)
Vol.9 歌川広重画「参宮上京道中一覧双六」 PDF(PDF:499KB)
Vol.8 描かれた幕末の草津宿―「草津宿割絵図」― PDF(PDF:335KB)
Vol.7 「田中九蔵本陣絵図」―田中七左衛門本陣絵図と比較して― PDF(PDF:353KB)
Vol.6  明治期の古地図―烏丸半島辺りの原風景― PDF(PDF:321KB)
Vol.5  昭和初期の草津名所の絵はがき PDF(PDF:270KB)
Vol.4  旅の愉しみ―駅弁掛け紙 PDF(PDF:307KB)
Vol.3  明治天皇、狼川を渡る PDF(PDF:161KB)
Vol.2  旅の必需品―あかり― PDF(PDF:189KB)
Vol.1  十返舎一九「東海道中膝栗毛」「続膝栗毛」と草津宿 PDF(PDF:298KB)

PDF形式のファイルを開くには、Adobe Acrobat Reader DC(旧Adobe Reader)が必要です。
お持ちでない方は、Adobe社から無償でダウンロードできます。
Get Adobe Acrobat Reader DCAdobe Acrobat Reader DCのダウンロードへ

お問い合わせ

教育委員会事務局 草津宿街道交流館
〒525-0034 滋賀県草津市草津三丁目10番4号
電話番号:077-567-0030
ファクス:077-567-0031

このページの作成担当にメールを送る

本文ここまで


以下フッターです。
Copyright © 2018 Kusatsujuku.
(禁無断複写・複製)
フッターここまで
このページの上へ戻る