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司書のおすすめ(「図書館だより」より)

更新日:2025年6月30日

毎月発行している「図書館だより」に掲載した「司書のおすすめ」です。本選びの参考にしてください。
資料によっては、貸出中の場合があります。詳しくはお問い合わせください。

『スナーク狩り』ルイス・キャロル/作 トーベ・ヤンソン/絵 穂村 弘/訳(集英社)2014年刊 一般書931.6キ【南館所蔵】

最初に断っておくと、本作に意味を求めてはいけない。なにしろ、作者はノンセンス文学の代名詞ルイス・キャロルである。「なんだかわけがわからない」を楽しむ本もあるのだなぁと鷹揚にかまえてお付き合い願いたい。
 本作は、ヘンテコな登場人物と巧みな言葉遊びで有名なキャロルの処女作『不思議の国のアリス』のしばらく後に発表された長編詩で、原文では韻を踏むように書かれている。船長ベルマンと8人+1匹の乗組員が、誰も見たことがない怪物「スナーク」を捕まえるため、まっしろな海図を手に冒険するという筋書きはあるものの、不思議な言葉の並びが読者を翻弄する。人の噂でしかない「スナーク」を追いかけるさまは社会風刺にも思えるが、作者の真意はわからない。
トーベ・ヤンソンの挿絵も「なんだかわけがわからない」世界観にぴったりだ。『アリス』にも出てくる架空の動物「バンダースナッチ」に襲われるシーンは恐ろしく、乗組員たちの表情はどこかコミカルに、細かく描かれている。そうすると「スナーク」もどこかに描き込まれているのではないかと探すのだが、いるような気もするし、いないようにも思えて、確信は持てない。
 調べてみたところ、『アリス』が生まれた頃、日本は幕末。出版ブームで読書人口が一気に増え、長編小説が次々に出版された後、川柳や狂歌、判じ物のような言葉遊びを楽しむ本が流行した。日本とイギリス、文化も風土もまったく違う大海を隔てた国で、同時代に同じような言葉遊びの本が生まれたのだ。
そして今度は、現代短歌の歌人穂村弘が、日本古来の長歌形式を借りて五と七のリズムで、「なんだかわけがわからない」のはそのままに、洒脱に訳している(なぜ同じ言葉を三度繰り返すのかは読んでのお楽しみ)。
それを私が偶然本棚で見つける、不思議な巡り合わせ。本に携わる者として、これほどロマンを感じる瞬間はないのである。(南館 大西)

『空と湖 水夭折の画家三橋節子』植松 三十里/著(文藝春秋)2019年刊 一般書913.6ウ【両館所蔵】

本書は、画家としての道を歩み始めた三橋節子が病で右手を切断した後、絵筆を左手に持ち替え、夫と幼い子ども達を残して35歳で早世した人生を小説化したものだ。著者は様々な資料を読み解き、資料にない二人の馴れ初めや厳しい闘病生活などは夫で大津市在住の画家、鈴木靖将さんから直接伺ったという。妻として母として揺れ動く繊細な心と画家としての人生を全うしようとするひたむきな情熱が歴史小説家の目を通して丁寧に描かれている。
物語は、5歳年下の画家である夫との純粋で微笑ましい馴れ初めから始まる。二人は、思いのすれ違いや心の葛藤を乗り越え結婚。二人の子どもにも恵まれ、夫婦共に画家としても認められて仕事も軌道に乗り、まさにこれからという幸せな時、節子は苛酷な病に冒されていることを知らされる。夫は、妻が画家としての命とも言える利き腕を切断した時、治療により髪の毛が抜けた姿を見た時や、日に日に痩せてゆく妻に対して、とても自然で優しく、それでいて力強くて愛に溢れる言葉をかけ続けた。節子はどんなに彼に勇気づけられ慰められただろう。彼の言葉は、一人の女性として私の心にも響き、とても印象に残っている。和気あいあいと家族で食卓を囲んでいる時に、ふと自分が消える寂しさが突然湧き上がる節子。残してゆく子や夫、家族への愛が行間からじんわりと滲みでるように涙を誘う。
本書を読んで実際に彼女の画を見たくなり、大津市の美術館を訪れた。画を前にし、何層にも塗り重ねられた立体的な色づかいや繊細な細い線で描かれていることに驚く。右手で描いた画と比べても遜色ないばかりか、より深く、力強く感じたからだ。彼女が死に対する悲しみや絶望を経験したが所以の人生の深みが現れているからこそ、こうして人の心を打つのだろうと思うと、それもまた、たまらなくやるせなく、切ない。読書でしか経験することのない彼女の壮絶な人生に自分も寄り添うような気持ちで読み進んでいったけれど、寄り添えば寄り添う程、彼女の心情を推し量るには、自分の想像力はまだまだ足りないと思えてならなかった。(本館 二井)

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』 山口 周/著(光文社)2017年刊 一般書159.4【本館所蔵】

近年グローバル企業が、世界的アートスクールや哲学ワークショップなどに幹部候補生を送り込むことが主流となっている。その理由を著者は、「これまでのような『分析』『論理』『理性』に軸足をおいた経営、いわば『サイエンス重視の意思決定』では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない」ためであり、自分なりの「真・善・美」の感覚、すなわち「美意識」に照らして意思決定をする必要があるからだという。
これは、決して「非論理的」であるということではなく、論理的に考えても判断が下せないような場面に遭遇したときに、自分なりの「美意識」に従い、「超論理的」に判断するということであり、本書では、「美意識」に基づいた意思決定による事例だけでなく、「美意識」の欠如がもたらした事例も紹介している。
その「美意識」欠如の例として、著者はオウム真理教を挙げ、「これほどまでに『偏差値は高いが美意識は低い』という、今日の日本のエリート組織が抱えやすい『闇』」を示しているものは他にないと語る。有名大学出身のエリートが、なぜカルト集団に傾倒したのかという当時の論調に対し、むしろ勉強すればするほど偏差値の上がる受験エリートだったからこそ、教祖に従い修行を積み重ねれば、階位が上がり、解脱できるという単純なシステムに傾斜したのだと、著者は言う。そして、偏差値教育を受けたエリートたちが、「美意識」が欠落した麻原の本を違和感なく受け入れ、同調していったのは、文学に親しむことなく、情緒や感性を育まなかった、すなわち「美意識」を鍛えてこなかったからだと分析している。
著者の主張は、「サイエンス」的な根拠に乏しい部分もあるかもしれないが、列挙される事例には説得力を感じる。本書の出版当時より、世界はますます複雑化し、将来の見通しを立てにくくなっているように思うが、日本なりの「美意識」を鍛えたビジネスリーダーが、必要とされているのかもしれない。 (南館 杉谷)

『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』かまど/著、みくのしん/著(大和書房)2024年刊 一般書019.04【両館所蔵】

今までの人生で本を読んだ経験が1度もない人に、もしも本をおすすめするとしたらあなたはいったい何を選ぶでしょうか?
本書は、読書が大好きなかまど氏が、これまで読書をしたことが1度もない友人のみくのしん氏におすすめの本を紹介し、人生で初めて本を最後まで読み切ってもらおうという試みを行った様子をまとめたものです。
国語の教科書に載っていたから記憶に残っているかもしれないという理由で「走れメロス」をおすすめしますが、みくのしん氏の反応は芳しくありません。それでもかまど氏は、なぜ本を読むのが苦手なのか、どうすれば読めそうだと思えるかを丁寧に聞き取りながら、少しずつでも着実に読書を進めていけるよう友人をサポートします。
本書には、本を読むことが苦手だと思う人の正直な心情がわかりやすく提示されています。文字がすり抜けていくような感覚があり読むのが難しい、文章の中にひとつでもわからないことが出てくると気になって読み進められないといったみくのしん氏の意見は、読書に慣れている者にとってはなかなか気づけないことでもあります。
そして、それをしっかり受け止め、友人に合った方法で一緒に読書を楽しもうとするかまど氏の姿勢にも気づかされるところがあります。どれだけ時間がかかってもいいと肯定されることで、読書への苦手意識がほぐれ、みくのしん氏が安心しながら物語の世界に夢中になっていく様子には感動すら覚えます。
かまど氏も驚くほど豊かな感性を活かしたみくのしん氏ならではの初めての読書体験が一体どのようなものになったか、ぜひ確かめてみてください。
本が好きな人にも、そうでない人にも、読書の楽しさが伝わり、何かしらの発見があるのではないかと思える、新たな読書の形を示した作品です。(本館 福田)

『ダメじゃないんじゃないんじゃない』 はらだ 有彩/著(KADOKAWA)2021年刊 一般書914.6ハ【本館所蔵】

日常の中で、別にダメじゃないのになんかダメっぽいと思っていること、ダメと言われてなんとなく守ってしまっていること、逆にぼんやりと誰かにダメと言ってしまっていることがあると感じることはありませんか?
本書は、そんな「ダメ」だと思い込んでいることに対して、「本当にダメなのだろうか」と立ち止まって考えるエッセイです。男の子がコスメと生きることは「らしくないからダメ」? 産休・育休で仕事に穴を開けることは「迷惑だからダメ」? 名前のない関係で生きていくことは「何にもならないからダメ」? など、著者が実際に見聞きしたエピソードをもとに、「別にダメじゃないんじゃない?」という視点で感じたことを自由に綴っています。
ダメじゃないのにダメと感じる状況や背景を、歴史や文化、自身の経験とともに深掘りし、問題に切り込んでいく文章スタイルに、ユーモアあふれる発想やイラストがいいアクセントで、読みやすく、友人と会話をしているようなリラックスした気持ちで、様々な「ダメっぽいもの」について考えることができます。
読んでいると、「これ、感じたことあるな~」と自分の身近な出来事を改めて考えるきっかけになり、そもそも何を基準に「ダメ」なんだろうか、ダメとかダメじゃないとかで決めるものなのだろうか、と深く考えてみたくなりました。「この状況はおかしい」とモヤモヤしたり、怒りを感じることがあるかもしれませんが、本書のコンセプトである「深刻なことをふざけて考えてみる」に倣って肩の力を抜いて考えてみることで、不思議とすっきりした気持ちで「ダメ」と向き合うことができるように感じました。
クスっと笑えてふと考えさせられる、著者の絶妙な視点に触れ、日々なんとなく感じる「ダメ」について、「これって別にダメじゃないんじゃないんじゃない?」と思い始めている自分がいます。(本館 神村)

『幸せってなんだっけ?世界一幸福な国での「ヒュッゲ」な1年』ヘレン・ラッセル/著,鳴海 深雪/訳(CCCメディアハウス)2017年刊 一般書302.3895【本館所蔵】

世界幸福度ランキングを御存じでしょうか?毎年国連の持続可能な開発ソリューションネットワーク(SDSN)が「世界幸福度報告書」を発行し、世界幸福度ランキングを発表しています。上位を占めるのは「北欧」と総称される、フィンランド、デンマーク、アイスランド、スウェーデン、ノルウェーの国々です。本書は、イギリスの元編集者が夫の転勤を機にデンマークのユトランド半島へ移住し、「ヒュッゲ」と呼ばれるデンマーク由来の生活を体験した日々を綴ったものです。「ヒュッゲ」とは、家族や友人とゆったりした時間を過ごすことや家の中を整えてスローな時間を楽しむこと指します。社会保障の充実、医療費無料、教育費無料などから、デンマークは世界で最も貧富の差が少ない国とされており、2024年の世界幸福度ランキングは第2位でした。(日本は51位)著者はこの国での生活を期待を込めて「デンマーク的生活」と呼び日々を過ごしますが、1日の日照時間が短く、凍てつく長い冬には鬱々とした気分になったり、他国の国旗を掲げて隣人から刑罰の警告を受けたりと、良いことばかりでもありません。その度にジャーナリストとしてのネットワークを駆使して国内の各方面の有識者と連絡を取り、デンマークでの生活の疑問を解決していきます。隣人や有識者たちに、あなたの幸福度は10点満点中何点?と問うと、すべての人が8点以上の高い点数だと言います。お互いを信頼する、誇りを持つ、選択肢を減らしてシンプルに暮らす、おもいっきり遊ぶなど、やりがいのある仕事につき、家族や友人と過ごす豊かな時間がある生活にデンマークに住む人たちは満足しているようです。それはデンマークだけでなく、どの国に暮らしていても自分たちの生活を見つめなおすことで気持ちを前向きにしてくれるとも言えます。あなたの幸福度は10点満点中何点ですか?(本館 塩崎)

『ガラム・マサラ!』ラーフル・ライナ/著,武藤 陽生/訳(文藝春秋)2023年刊 一般書933.7ラ【南館所蔵】

インドのエンタテインメントといえば、ボリウッド映画やアカデミー賞最優秀歌曲賞を受賞した映画『RRR』が思い浮かぶ。また、インドの文学といえば古典作品の『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』、アジア人で初めてのノーベル文学賞作家となったタゴールの『ギタンジャリ』、いずれも壮大な詩として有名だ。
そんなインドの多面性、歴史、過去、現在を存分に詰め込み、スピード感溢れるミステリとして昇華させたのが本書である。著者はインドのデリー生まれで、本作を発表したときは28歳、イギリスとインドで事業を営む若者である。
父親に殴られながら毎日チャイ屋台を引いて育った青年ラメッシュは、貧困からのしあがり、ニューデリーで教育コンサルタントをしている。裏口入学、替え玉受験、依頼人の支払い次第でどんな手も使い、富裕層の子どもを志望校に押し込むのが彼の仕事だ。このビジネスが成り立つ背景にはインドの苛烈な受験戦争がある。ラメッシュが依頼人の息子ルディに成り代わって受験する全国共通試験は、日本の大学入学共通テストと同様、大学入学への切符を得るための試験だが、「一万位以内に入れば将来が約束される」、しくじることは絶対に許されない試験なのだ。例年どおり替え玉受験に挑んだラメッシュだったが、なんと全国トップの成績を取ってしまう。天才少年としてもてはやされるルディと、ルディが稼ぎ出す大金の分け前を求めてマネージャーに収まるラメッシュ。クイズ番組の司会者となってますます有名になる裏で荒廃していくルディをカネの成る木としてのみ支えているはずのラメッシュだったが、恨みを持つ人間に誘拐されたことから、二人の関係は変わっていく。
憲法上は否定されてもなお人々の中に根付くカースト意識や埋まらない格差、女性蔑視、隣国との紛争など、現代インドが抱える闇を著者は「悪態をつく」セリフの中に巧みに描き込む。最後まで楽しく読ませながら、読後、私たちをはっとさせる作品。(南館 大西)

『枕草子のたくらみー「春はあけぼの」に秘められた思いー』山本 淳子/著(朝日新聞出版)2017年刊 一般書914.3セ【本館所蔵】

大河ドラマ『光る君へ』にはまっている。戦国時代がお好みの方は、平安時代の大河は面白くないと思っている節があるようだが、戦のない雅な平安時代の陰で繰り広げられている権力争いは千年後の現代の権力社会と何ら遜色なく(流石に毒を盛ったり、呪術を使ったりはしていないと思いたいが)毎回目が離せない。そして何よりも私が魅了されたのは、和漢の素養を持つ才女、中宮定子の問いに、機転と知性を持って賢明に応える清少納言とのやりとりだった。名場面「香炉峰の雪」など、機知の可視化によって、より定子と清少納言についてもっと知りたいと好奇心が膨らみ、手にとったのが本書である。
本書は、『枕草子』の世界を作品が書かれた経緯に照らしつつ紹介しながら、清少納言の創作の意図や章段の意味を著者がわかりやすく、興味深く読み解いてくれている。現代語訳も情景が浮かんで想像しやすかった。そして、タイトルにある「企み」!?にも、読書欲をそそられ読み進んだ。
定子が目指したのは、後宮をより確固たるものにし、後代からも崇められる後宮文化を築きあげることだという。そのために清少納言を筆頭に女房たちを指導し、積極性、自己主張、優雅な機知、庶民性を特徴とした最先端の後宮文化を花開かせたのだ。定子が女房たちをしっかりと見守っている姿は『枕草子』に記されている。一人一人の状態を気遣い、それぞれの持つ最大の力を発揮させるべく導いていくリーダー定子の振る舞いは、現代のリーダーにも通じる憧れの存在であり、様々なシーンに魅了されたことにも納得がいった。
誰もが学校で習う『枕草子』。記憶にあるのが章段暗記だけなのが悔やまれてならない。背景にある社会や歴史学的な事柄を知り、登場人物たちの心情をより深く想像して、千年前の世界に身を置くことができるのは、「読書の喜び」に他ならない。     
本書を皮切りに知的好奇心がどんどん広がって、源氏物語や紫式部、藤原道長などの本へと誘われていく。これもまた「読書の喜び」である。(本館 二井)

『インフォーマル・パブリック・ライフ』飯田 美樹/著(ミラツク)2024年刊 一般書361.78【南館所蔵】

ヴェネチアやパリ、コペンハーゲン…。旅先で、どこか惹きつけられる街に出会った事はないだろうか。本書は、そんな、人々を惹きつける街に共通するルールを解き明かしている。
『インフォーマル・パブリック・ライフ』とは、一言で表すと「気楽に行けて、予期せぬ誰かや何かに出会えるかもしれない、あたたかみのある場所」だという。そして、まちをそんな場所にするための要素が何なのか、7年以上もの月日をかけて、筆者は研究した。そのきっかけは、子どもの誕生に伴い、幸せな家庭を築くことを夢見て、京都の郊外に引っ越したことだったという。
徒歩圏内にあるショッピングセンター、豊富にある公園、ウォーカブルでベビーカーも押しやすいその街で、なぜか筆者は孤独を感じ、その孤独を誰からも理解されなかったと本書で語っている。しかし、アメリカの郊外に住む専業主婦が、同じように孤独を感じていることを知り、そしてそれはインフォーマル・パブリック・ライフの欠如が原因であることを知る。
本書では、オープンカフェの存在が、インフォーマル・パブリック・ライフを生み出すための一つのカギとなっているのだが、車社会がいかにインフォーマル・パブリック・ライフを阻んでいるかについても言及され、筆者は「車社会を放置したままで街を活性化するのは無理がある」と言い切る。それは、歩行者空間がインフォーマル・パブリック・ライフを生み出す7つルールのひとつだからだ。そして、「世界では、街を、道を自分たちの手に取り戻すという動きが始まっている。」と語る。
 もし、不自由のない生活を送っているのに、なぜか孤独や生きづらさを感じている人がいるなら、本書でその理由がわかるかもしれない。(南館 杉谷)

『ミライの源氏物語』山崎 ナオコーラ/著 (淡交社)2023年刊914.6ヤ 【本館所蔵】

大河ドラマ「光る君へ」を見て、「源氏物語」に興味を持った方もいらっしゃるかもしれません。しかし、学生時代の授業の印象からか「源氏物語」は難しそうだと敬遠されることも少なくないようです。「源氏物語」に限らず、古典作品を読むときには、古文を読解することや、当時の社会規範や倫理観を理解することが大きなハードルになることが多いものです。
本書は、古典文法や執筆当時の時代背景から「源氏物語」を研究者のように読み解くのではなく、現代人だからこそできるやり方で「源氏物語」を楽しもうという試みで書かれたエッセイです。貧困問題、不倫、ジェンダーの多様性など、現代社会で直面することの多いさまざまなテーマで「源氏物語」を新たな視点から捉えなおしています。
たとえば、人と違う容姿を滑稽だと揶揄される末摘花は、現代でいうところの「ルッキズム」の問題にさらされているのではないかという切り口から、モラルだけでは割り切れない人の心に迫ります。
また、葵の巻での六条御息所と葵の上の車争いの場面は、「マウンティング」だと読み取れるのではないかという切り口から、人はマウンティングをいかに乗り越えていくべきかを考察します。
現代社会を生きる私たちが「源氏物語」を読んだ時に感じる率直な感覚や疑問を掘り下げることで、古典作品を通して私たちが抱えているうまく言葉にできないもやもやした感覚や社会の問題点が明らかになっています。
何より「源氏物語」を自分の感覚に素直になって楽しむ著者の姿勢は、古典文学と聞くだけで思わず難しそうだと身構えてしまう人にも、純粋に物語を味わうという読書の根源的な喜びを教えてくれるかのようです。     (本館 福田)

『客観性の落とし穴』村上 靖彦/著(筑摩書房)2023年刊行 一般書301【南館所蔵】

統計学が発達し、数値によって社会や人は統制可能で予測可能なものとなった。子どものころから成績で優劣が決まり、社会に出ると利益を生み出せるかどうかで評価される。本来指標としての数値が、いつの間にか勉強や仕事の目的や評価の対象となっている。数値から外れれば、「劣っている」とみなされ、社会の厳しい目にさらされてしまう。
本書では、客観性や数値に重きを置く社会の傾向を問い直し、一人ひとりが生きやすい社会のあり方について、客観性とは異なる、個別の経験と語りの視点から考えることをテーマとしている。
著者は、客観性自体を問題視しているのではなく、生活が客観性や数字に支配され、社会全体に序列や競争が広がっていることに問題を感じている。客観性や数値だけに重きを置くのではなく、一人ひとりの経験の「語り」に目を向けてみることにも注目し様々な事例が示されている。
子ども時代に薬物依存の母親をサポートしながら貧困を経験したショウタさんの語りには、「普通」という言葉が頻繁に出てくるが、使うたびにその意味が変化している。その変化からは、世間一般の「普通」と自身の感じていた「普通」の中で揺れ動く感情の様子やどんな対人関係と社会環境の中で生きてきたのかが見えてくる。そこには、母親をケアする「ヤングケアラ―」という客観的概念では捉えきれない生き生きとした姿が感じられる。
私自身、数字がすべてなのだろうかとふと疑問に感じることがある。苦しみを抱える当事者や彼らを支える人たちにしか分からない繊細な思いは、数値的なデータや制度では見えてこない。多様性が広がる今、数値だけでなく実際に見て聞いて物事を知ることの大切さに改めて気付かされた。(本館 神村)

『今日 Today』伊藤 比呂美/訳(福音館書店)2013年刊行 一般書931.7キ【本館所蔵】

「Today I left some dishes dirty(今日、わたしはお皿を洗わなかった)」本詩集は、こんな書き出しから始まります。この一節に共感されるお父さん、お母さんはどのくらいいらっしゃるでしょう。今日は片付けも出来なかった、掃除も出来なかったと落ち込んだ時期があった私は、すやすや眠るわが子の隣でこの詩を読みながら、自分だけじゃなかったととても安心しました。これは、誰が書いたのかも分からない、ニュージーランドの子育て支援施設の壁に貼ってあったものを編集者が訳者に翻訳を頼んだものだそうです。
詩の中で、「今日一日、何をしていたの?」という問いかけがあります。それに対して、「この子のために すごく大切なことをしていた」と、答えが返ってきます。また、「たいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんと」という言葉が、それでもいい、できなかったことよりもできたことを褒めてあげる、機嫌よく楽しかったことを数えて過ごせばいいと教えてくれます。きちんとしないと、完璧にやらないと、と毎日頑張っている人に、ちょっと肩の力を抜いてたまには適当でもいいんだよと語りかけてくれているような気がします。
また、英語圏でペットが死んだときに誰かから送られてくるという「虹の橋」という詩も載せられています。ペットを飼ったことがある人はもちろん、飼ったことがない人も心をきゅっと掴まれるような、愛しさがこみ上げてくる詩です。
名前も知らない誰かから届く優しいメッセージ。読めば5分もかからない、とても短いこの詩を私は何度も何度も繰り返し読みました。夜眠る前に、今日の出来事をゆっくりと振り返りたくなるような気持ちになります。落ち込んだときや辛いとき、勇気や力をくれるのは誰の言葉ですか?家族、友人、そして、その時々に出合った本が今の気持ちに寄り添ってくれます。(本館 塩崎)

『「おふくろの味」幻想誰が郷愁の味をつくったのか』湯澤 規子/著(光文社)2021年刊行 一般書383.81【南館所蔵】

著者の調査によると、「おふくろの味」が料理本のタイトルとして出現するのは1960年代であり、わずか40年ほどの間にさまざまな変遷を経て、消えていく。その時期はちょうど地方から都市に流入する人が増加した高度経済成長期から、核家族化、専業主婦の増加期と重なる。
当初の「おふくろの味」は、都市に出た若者たちの「望郷の味」という意味であり、「母の味」ではない。彼らの出身地、特に農山漁村において炊事は仕事の合間に家族の誰かが行うものであり「母」に特定されることはないからだ。また、同時期に農山漁村でも郷土の味を後世に伝えようとする動きがあったことから、故郷への思慕を青年期以降の男性がよく使う「おふくろ」という言葉で表現することが広く受け入れられた。その後、都市に出た若者たちが家庭を持ち、核家族の中で専業主婦となった「お母さん」が家族のご飯を作る姿が、理想的であり、あたかも古くからの伝統であるというようなジェンダーバイアスを孕んで社会に認識されはじめると、広告戦略やメディアの煽動も相まって、「おふくろの味」の意味は「母が手作りする家庭料理の味」に変化していく。
最終章では、「おふくろの味」を料理本に冠することがほとんど見られなくなった昨今、かつて「祖母から母へ、母から娘へ」といわれた家庭料理を著名な料理研究家の息子たちが自分の哲学やアレンジを加えて発展させていること、SNSでは老若男女問わず料理を楽しむ様子が配信されていることに注目している。
本書では「おふくろの味」がテーマになっているが、人間が創り出した概念はいずれも実は多様に移ろいやすいものである。「それに気づけば、私たちは他者や世界、そして自分に対して、少し寛容になれるのかもしれない」と、著者が料理を通して覗いた未来に明るい兆しを感じた。(南館 大西)

『旅する練習』 乗代 雄介/著(講談社)2021年刊行 一般書913.6ノ【本館所蔵】

2020年の春、語り手である小説家の姪、亜美(あび)が志望する私立中学校(女子サッカーの名門校)に無事合格した。折しも通っていた小学校が臨時休校になったのを機に叔父と姪は、我孫子を起点に利根川の堤防道沿いを歩いて鹿島を目指すというわずか6日間の『旅する練習』を計画する。
『旅する練習』とは、亜美は移動しながらサッカーの練習であるドリブルやリフティングをする。叔父は「ひとけのない風景を描写する」修練として、その場でノートに文章を書きつける。目的地を目指して「歩く、書く、蹴る」を繰り返す、叔父と姪それぞれの練習の旅のことだ。そして、最終ミッションはこの旅のきっかけとなった亜美の一言、「去年の夏、鹿島へサッカーの合宿に行った際、借りたままの本を返しに行きたい」だった。叔父は、国語が苦手で読書もめったにしない、サッカーが大好き、オムライスが大好きで「私の練習に不可能はない!」と屈託のない笑顔を見せる彼女の願いを叶えるため、鹿島までの道のほとんどでボールが蹴られるようなルートを選んで旅を続けていく。
叔父の修練である、山川草木などの風景や鳥獣虫魚の緻密な描写も素晴らしく、目の前にその景色や動物達の息づかいをも感じさせた。旅で通りかかるその土地々々の歴史にも触れ、土地について書かれた田山花袋や安岡章太郎、柳田國男の文章を巧に引用している。「柳田國男」、「カワウ」、「ジーコ」、「お不動さん」等の話で読者を充分に堪能させながら、主軸である姪との旅にも見事にシンクロさせているところがにくい。彼の手によって私達は予想もつかない場所へ連れていかれてしまうのだ。<この作家、なかなかやるな>と唸らされた。
読後はしばらく茫然としてしまうだろう。地方都市の平凡な風景、地続きの日常の中に、市井の内なる声や祈り、願いがこの物語に込められている。(本館 二井)

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教育委員会事務局 図書館 市立図書館(本館)
〒525-0036滋賀県草津市草津町1547
電話番号:077-565-1818
ファクス:077-565-0903

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